読み切りアイディア・ストーリー〜メニュー〜
一口サイズの読み切りアイディア・ストーリー
ショートショート・読み切り童話・SF・ファンタジー
〜メニュー〜
●因果応報 脳死と臓器移植をモチーフとした原稿用紙7枚弱のSS
●赤いクモ〜夢の前兆〜 4枚強のショートショート
●守護霊〜一人称について 7枚余りのSS&ぷちエッセイ
●暗示効果 8枚のショートショート
●地震の予知 8枚のショートショート
●不老の理由 9枚半の奇妙な味の小説
●チョウのみた夢〜善意の報酬〜 12枚の児童小説
●愛しいまぼろし 13枚強の児童小説
●金色の首輪 5枚半弱の読み切り童話
●団地さいごの日!? 5枚半弱の読み切り童話
●神への陳情 1枚半のショートショート
●地球のタネ 14枚余りのSFメルヘン
●病院跡の座敷童子 20枚半の児童小説
●雨の日の通信 7枚半の読み切り童話
●おじいちゃんのしんぱいごと 2枚半の読み切り童話
●カエルの念力 10枚弱の児童小説
●人面ガエル 8枚半の童話(怖い話)
●きえた大はつめい 2枚ほどのショートショート童話
●チョコといっしょのおるすばん 4枚ほどのフェレット童話
●愛犬家博士の<夢の発明> 2枚半のショートショート
●とどけられたポケッチ 12枚の読み切り童話(小3・国語)
●いきいきリサイクル 5枚余りのショートショート童話
〜番外〜
●巻貝が描く《幻の地図》 4枚ほどの幻想掌篇風着想メモ
●小説版『ミラクル☆スター〜復活篇〜』 ※読み切り 3万字以上あります
●バーベットin夢 2枚半弱のショートショート風メモ
※ワープロ専用機を愛用していた時期に作成していた星谷 仁の個人誌《チャンネルF》──そのブログ版。
愛しいまぼろし
月刊《児童文芸》1988年7月号に掲載した読み切り児童文学作品。今回投稿したのは四百字詰め原稿用紙(20字×20行)で13枚強のオリジナル(?)版。依頼が12枚半ということだったので、それに合わせて若干削ったものが《児童文芸》には掲載された。
ひとりの少年が(おそらく)ジュブナイル作家をたずねるところから物語が始まる。童話や児童文学では子どもが主人公で、その視点で描かれることが多いが、『愛しいまぼろし』では、大人の側の視点で展開する。それがなぜなのかは読んでいただければご理解いただけるだろう。少年の視点ではこの物語は成立しない(しづらい)。作品上の必然として大人側から描くことになったわけで、こうした手法もあって良いだろう。(おそらく)ジュブナイル作家の一人称で展開するが、これは結末の意外性を効果的に演出するためのものであって、作中の《僕》は僕(星谷)ではない。あくまでも架空の人物である。
チョウのみた夢〜善意の報酬〜(読み切り童話)
『チョウのみた夢〜善意の報酬〜』は四百字詰め原稿用紙(20字×20行)で12枚の作品。「小学高学年向きで10〜12枚」という条件だった。主人公は小学高学年という設定で、内容も小学生にわかるように描いたが、着想としてはショートショート。着想から執筆のさいに頭の中にあったタイトルは『善意の報酬』だったのだが、小学生向けということで《知の翼》誌上では『チョウのみた夢』となった。
不老の理由(ショートショート)
《不老長寿》は今昔東西を問わず、多くの人が関心を寄せてきたテーマにちがいない。しかし、人が老いて死んでいくのは、逃れられない自然の摂理だ。これに逆らい背くことは罪深いことのようにも思われる。ゆえに《不老》の実現にはタブー感がつきまとう……。
「人魚の肉を食って不老長寿を得た」という八百比丘尼伝説は有名だ。しかし、実際には、人魚などいやしない。とすれば、この話はどうして生まれてきたのだろう? 《不老化》の真相とは……禁断の「食べ合わせ」による特殊な作用・効果だったのではあるまいか──というのが、この作品の着想となった。《不老》のタブー感とも合致する。
『不老の理由』は、四百字詰め原稿用紙(20字×20行)換算で9枚半ほどのショートショート。『地震の予知』や『暗示効果』、『守護霊』なとどともにワープロ専用機を愛用していた時期の個人誌《チャンネルF》12号(1994年3月9日号)に収録していた。試行中のはてなブログ版の《チャンネルF》でも公開してみることにした。
地震の予知(ショートショート)
400字詰め原稿用紙(20字×20行)換算で8枚のほどのショートショート。パソコン以前にワープロ(日本語ワードプロセッサ専用機)で作成していた個人紙《チャンネルF☆通信》の第4号(1993年8月28日号)に載せたもの。執筆当時は安部公房の死が報じられた頃で、少し前には松本清張や長谷川町子が亡くなっており、色々感じるところがあって、それが着想のきっかけとなった。作中の《矢部耕坊》は《安部公房》のもじりで、《増本誠張》は《松本清張》、《瀬川真知子》は《長谷川町子》をもじったネーミング。『地震の予知』は、やはりワープロで作っていた個人誌《チャンネルF》12号(1994年3月)にも収録している。
まだ手探り状態の本ブログのタイトル=《チャンネルF》はこの個人紙・個人誌からきている。チャンネルFのFは、Fantasy・Fusion(現実と幻想の「融合」)・FUSHIGIのF。本文の終わりに載せた《チャンネルF》12号の表紙は(も)僕が描いたもので、《運命の赤い糸を小指と小指の間にかけるクモ》のイメージ。《運命の赤い糸の先があの世の人だったら……》という着想を絵にしたもの。《奇妙な味の短い話》のイメージを表したつもり。
暗示効果(ショートショート)
暗示効果(ショートショート8枚版)
『暗示効果』は四百字詰め原稿用紙(20字×20行)換算で8枚ほどのショートショート。もともとは小説現代のショートショート・コンテストに投稿した4枚の作品だったが、ちょっとあっさりしすぎている気がして加筆してみたもの。
小説本文は縦書き形式の方がしっくりくるので、無理して縦書きの画像を作成して投稿している。小説の活字は一般的には明朝体がふさわしい(無難?)気がするので、明朝体でも試して見たが、パソコン画面で見るとあまりきれいではない。明朝体の細い部分や「トメ・ハネ」等の細かい部分がドット表示では不明瞭になりやすいようだ。活字の読みやすさからすると細めのゴシック体がパソコン画面には相性がいいのかもしれない。
──ということで、ゴシック体の縦書き画像で投稿。
守護霊〜一人称について
守護霊〜霧に立つ影〜(ショートショート)
『守護霊〜霧に立つ影〜』は、400字詰め原稿用紙(20字×20行)換算で7枚余りのショートショート。この作品のヒントとなったのは、あるとき小耳に挟んだ体験談だった。戦時中、大きなダメージを受けた飛行機のパイロットが帰還中、絶体絶命という状態の中で、戦死した戦友の幻影を見たというのだ。なんとか生還をはたすことができたパイロットは「あれは、戦友の霊が自分を守ってくれたのだろう」と考えたそうな。このドラマチックな体験談を聞きながら、この話に全く別の解釈を持ち込むことができるのではないか──と考えたことが『守護霊〜霧に立つ影〜』のヒントになった。ある現象が、見方(解釈)によって全く違った色合いに転じる──そんな意外性を意図して描いた小品だった。
小説の一人称について
『守護霊〜霧に立つ影〜』は、作中の「私」同様、僕がワープロ──その後パソコンの普及で絶滅した(?)日本語ワードプロセッサ専用機──を愛用していた時代に書いた(タイプした)作品。一人称で描いた作品だが、もちろん作中の「私」は僕のことではない。
小説では、しばしば一人称が使われる。一人称で作品を書くメリットは──まず、主人公が誰なのかが明確であること。映画やテレビドラマ等の映像作品では視覚的に役を識別しやすいが、小説では名前という記号だけで人物を識別しなくてはならないので、登場人物が増えると覚えにくかったり混乱をきたしやすい。これがときに読み手のフラストレーションになったりもするが、主人公を一人称にしておけば、他の登場人物と間違えること無いし、作中で覚えなくてはならない人物名を一人分節約できる。ちなみに僕の場合、登場人物を覚えやすくするために、名前の表記をカタカナ・ひらがな・漢字などで使い分けたり、字数を変えるなどして差別化をはかることも多い。
他に一人称のメリットとしては、読者が(あるいは書いている作者自身が?)主人公と一体化することで共感しやすくなる──というような効果もあるかもしれない。
また、一人称で書き始めると、作中の事件を特定の1人の視点で描かなくてはならなくなるため、この「制約」によって、描くべきエピソードをどのような場面で構成すれば手際よく描けるか、整理する必要に迫られる。その結果、読み手からするとわかりやすく、書き手は「事件やエピソードをわかりやすくまとめる構成力」が身につくというメリットも考えられる。
しかし一方、一人称ばかりを好んで書く人は「制約」によって、発想が「一人称で描けるもの」に偏向し、こぢんまりとまとめるクセがついて、これが物語の広がりを抑制する傾向があると危惧する向きもある。
創作修行を続ける者が、好んで描くスタイルに合わせた創作スタイルを確立していく(条件による最適化?)というのは大いにあり得ることだ。一人称もの(?)ばかり書いていると、「発想も一人称で描ける範囲のものになってくる」という危惧は、わからないでもない。
他の例でいうと……「短い作品ばかり描いていると発想や構成もそれにあったものに固まっていく」とか、「枚数や作品の生産量にノルマを課して描いている人は、枚数をかせぐ書き方や、短期間に作品を仕上げるための技法(クセ)が確立してくる」などといったことはありがちな気がする。書き手は、苦労しているのだから、それだけ修行している気になるのかもしれないが、単に「課せられた制約の中でも書ける技術」がつくだけで、面白い作品を書く修行にはなっていなかったり、かえって遠ざかっていると感じるケースも思い当たらないではない。執筆ノルマを優先することで「作品が雑になることに鈍感」になったり「低いハードルでも書ける」ようになっていく例は少なからずあるように思う。
話を一人称に戻して……僕は一人称をよく使うが、その是非は作品によって──その作品にふさわしいか否か──ということなのだろうと考えている。メリット・デメリットを理解した上で、描こうとする作品にふさわしい人称を選択すればよい。
『守護霊〜霧に立つ影〜』では、最後に死を目前にする主人公の衝撃をより効果的に演出するために一人称を選んだ。三人称で描くより「私」のモノローグで展開した方がしっくりくるという判断もある。
小説の中で使われる人称は、作品によってふさわしい形が選ばれているだけにすぎず、一人称で描かれているからといって、作中の人物が作者というわけではない。