チャンネルF

個人誌的ブログを試行中…ショートショートや読み切り童話など

創作初心者に対するアドバイスについて

右も左もわからずに書き始めた頃をふり返って…

創作を始めて日が浅いうちは、「おもしろいものを書こう!」という意気込みはあっても、技術的なことはあまりよくわからず、無自覚で書いている部分が多い。また、そうして書いた書いた作品がはたしてどのていどのものなのか、自分で判断するのも難しい。
そこで、他者の意見──同人誌合評会などでの先輩や他のメンバーの意見が、初心者にとって大いに参考になるわけだが……僕の合評会時代をふり返って思うところを少し記してみたい。

初心者は、書いている時は短所はもちろん長所についても無自覚でいることが多い。そんな初心者の作品を読んだときに、まず気になるのが短所の方だ。作品の欠点は長所よりも明確で、具体的に指摘しやすい。合評会などでは、おざなりに褒めたあと、欠点について具体的に指摘されることが多い(多かった)ように思う。作者としては無自覚で書いた作品の欠点が指摘され具体化することで初めて問題点が意識化でき、「なるほど、もっともだ」と納得する。そして、意識化できた欠点を修正すべく書き直しをする──が、問題を解決したはずなのに、作品は書き直す前よりもつまらなくなっている……という現象が起きたりする。

初心者は具体的になった欠点を直すことばかりに意識が向いてしまい、無自覚で書いていたおもしろさ(長所)が薄れてしまうためだ。短所を自覚できたのに長所を自覚していないと、こういうことが起こる。
欠陥が修復できても、作品をつまらなくする改稿は本末転倒というものだ。欠点の修正も大事だが、意識すべきは《作品をより良くすること》。《手直しは、長所を活かすための変更》──くらいの気持ちで取り組むのがいいのではないかと思う。

合評会では、作品の短所(欠点)が明確化しやすいが、アドバイスをする側もされる側も、長所の指摘・自覚も大事だということを心しておくべきだと思う。
短所の指摘・自覚は簡単だが、長所の指摘・自覚は難しい。
手直しするさいに、短所の解決策が同時に長所を引き出す方向に働くような指摘が理想的だろう。
合評会では、色々な意見が出てくるだろうが、「その指摘が、その作品の良さを引き出すことに、どうつながるのか」という視点をもつことも大事なような気がする。

 

創作雑記ほかエッセイ〜メニュー〜

読み切りアイディア・ストーリー〜メニュー〜

「下手に書け」橋本忍氏の脚本観について

前回の【ノルマを課して書くことについて】で僕は「書くことを優先して質を下げる」ことを批判的に記した。ただ、これとは逆の意見もある。著名な脚本家・橋本忍氏が以前テレビ番組で語っていたのだが──曰く「シナリオは下手に楽に書け」「自分のシナリオが下手な事に気をつかうことは無い」──つまり、自分の書くものが下手であっても、そんなことは気にせず、書くことが大事というようなことを語っていた。そんな興味深い橋本氏の脚本観と、それについて思うところを以前別の場所で記したことがあったのだが、前回の記事とも関連したテーマでもあるので、あらためて記しておくことにした。

     *     *     *     *     *

橋本忍氏が語った脚本観について

以前【没後10年 黒澤明 特集】としてNHKで『脚本家 橋本忍が語る 黒澤明〜「七人の侍」誕生の軌跡〜』という番組が放送されたことがあり、それを見ての感想覚書。

橋本忍は言わずと知れた脚本家。黒澤明監督との共同脚本も8本あり、そのひとつ──映画『七人の侍』がどのような経緯で制作されたかについて、脚本家の立場で語った番組だった。

ちなみに『七人の侍』は僕がもっとも好きな映画のひとつであり、完成度も非常に高い作品だ。作品誕生の経緯や、黒澤方式(?)の共同脚本がどのようなものだったのかも興味深かったが、この日記ではその主題については触れない(長くなるので)。メインの話も大変面白かったのだが、それとは別に、橋本忍氏がちょろっと語った自身の脚本について考え方がとても印象深かったので、今回はその部分と、それについて思うところを記しておきたい。

問題の発言は番組の最後──聴講していた(映画を勉強している)若者たちとの質疑応答の中で出てきた。橋本忍氏が「努力目標を持つ事が大事」とアドバイスしたとき、「橋本さんの努力目標は?」と問われて答えたのが次の言葉だった。

「シナリオは下手に楽に書け
 自分のシナリオが下手な事に気をつかうことは無い」

そう心がける事が努力目標だというのである。

「シナリオを書こうとして書けない人、書き出して途中で止まって止める人。これは上手く書こうとするからだ」
──と橋本氏は話す。
人は小さい頃から教育を受け、様々な事を学び、「批判力」は身につけてきているが、「創造力」に関しては学んでいないのが普通だ──だから同じ人の持っている「批判力」(大)と「創造力」(小)には相当な格差がある。それゆえ自分が創造している作品を自分の批判力をもって測ると批判力の方が勝り、立ち行かなくなってしまう(書けなくなる)。
だから最初から上手く書こうとは思わず、下手に書くつもりでないと作品はできない──というのだ。
「極端に言うと、シナリオは批判力をゼロにしたとき初めて生まれる」とも語った。
一度「批判力」を外してシナリオを書き、できあがったところで初めて批判力を使って一つ一つ直して行けば良い。最初から完全なモノを書こうとしないことだ。
──そんな内容の話をし、会場の若者たちは大いにうなずいたりメモをとったりしていた。

この指摘は脚本にかぎらず、創作を志したことがある人なら響くところがあったろう。

映画を観たり小説を読んで、どこが良いとかどこがダメとか批評したり分析することはたやすい。人はそれで創作作品を判ったようなつもりになりがちだが、しかし実際に作品を書いてみると、これがなかなか思うように行かないものだ。創作活動をしたことがある人なら誰もが経験する事だろう。
なまじ批判力があるために描き始めてメゲることはよくある。それを橋本氏は「なるほど」と思える理屈で説明している。「目から鱗が落ちた」と感じた人も多かったのではないだろうか。
「うまいコトを言うなぁ」と僕も感心しながら聞いていたのだが、個人的には、ちよっぴり「書き上げるための欺瞞」という感じがしないでもなかった。
(若者たちに「とにかく辛くても書きあげることが大切だ」とエールを贈る意味合いもあったのかもしれないが)

創作というのは、思い描いていたイメージを具現化し定着させることだ。明確に思い描いていたつもりでも具体的化していく作業の途上で、それまで気づかなかった不備や解決せねば成らない問題が発覚するものである。書いてみてはじめて気づく(意識化される)ことは多い。
最初に思い描いていたイメージと、書いた原稿を読み返して浮かぶイメージとではギャップがあるのが普通だ(特に創作を始めて間もない頃は)。頭の中に思い描いていたイメージと原稿となったもののイメージの格差は何によるものなのか──その原因を探り当て、どう対処すれば当初のイメージに近づけることができるかを考えて修正をはかる。場合によっては当初のイメージ自体にも修正を加えながら、改善後の原稿を書いて再び読み直し、さらに修正を加える──こうしたフィードバックのプロセスをくり返す事で、イメージはより密度を増し、作品はあるべき形に近づいていくわけだ。

そういった意味で創作(脚本や小説など)は、「書かないことにはハナシにならない」ということはハッキリしている。
創作もスポーツも科学も……フィードバックのプロセスなしに真理に近づくことはできない。

さらに言うと……(創作作品を)書いたことがない人の批評・評論はしょせん机上の空論──泳いだ事が無い人が水泳競技を見て技術分析をしているようなものだ。書かずに理屈をこねたところで実践(実証)がともなわなければ、創作を理解した事にならない。
評論という分野は創作とはまた別次元のジャンルで、創作の一面を捉えているだけにすぎない。
例えてみれば、出された料理を食べて「うまい」「まずい」というのが評論であり、創作は「調理」にあたる。うまいかまずいか言い当てる能力は調理の技術とは別のものだ。

映画や小説をたくさん観たり読んだりしていることで独自の作品論を構築し創作作品を理解した気になっている「映画通」「小説通」は少なからずいるようだが、実戦経験がなければ、それは「水泳中継を見ただけで、トップイスマーになった気でいる」のと同じかもしれない。

さて、「書かないことにはハナシにならない」ということは明白だ。
書かずに批評ばかりする者より、失敗作であっても書いた人の方が先に進んでいる
──ということも言えるだろう。

ただ「書いてさえいれば、それで良いのか」──「描き続けていれさえすれば前進し続けていると言えるのか」というと、それはまたちょっと違うという気がする。

とにかく「たくさん読み」「たくさん書く」ことが大事だと言う人は多い。意味する所は判らないでも無いが、僕は「量」より「質」が大事なのだと思う。

国語が苦手で大嫌いだった僕は書くのが遅い。しかしながら、とりあえず練習のつもりで「とにかく書く」ことを心がけてみた時期がある。平均したところ1日あたり19枚(400字詰め原稿用紙)書いていた時期もあった。
けれど、ふり返ってみるとその時期に得たものはほとんど無い。「無理矢理書けば書けるものだな……」というのがわかった程度で、無駄な事を続けていた印象が強い。
書いていると、すんなり筆が進むときと、ぱたっと止まってしまうこと、スピードが極端に落ち書き進めるのがしんどい事など、あるものである。
そんなとき「批判力」を捨てて書き進めて良いものか……と僕は思う。
書くのに抵抗が生じたときは、きっと何か理由があってのことである。そんなときはむしろ立ち止まってその理由──「作品を書きすすめる上で障害となっている問題点」を探りあて、解決法を探ることに時間を費やすべきだ──というのが僕の考え方だ。

着手した作品が思いのほか進まないのは、科学で言えば「理論(仮説)ではうまくいくはずなのに実験をしてみたら思うような結果が得られない」という状態に似ている気がする。むりやりでも進めたいところを立ち止まって検証することが遠回りのようでも真の解答(解決)へ近づく道ではないかと思うのだ。

「何か違うな……」という迷いを無視して(「批判力」を捨てて)強引に進めた作品は書き上げても結局モノにならない──と僕は考えている。
修正によって改善し得る範囲にも限界はある。とにかく書き上げれさえすれば、あとは修正でいくらでも完成度を上げられる──というものでもない。疑問を感じながら強引に書き上げた作品には本質的な不備が潜んでいる可能性が高い。

つまずいた時、書き進むのが困難になったときにこそ、「批判力を駆使して」それまで自覚できずにいた問題を意識化し解決につとめることが大事ではないのか──僕はそう考えている。

橋本忍が語った【「批判力」と「創造力」の格差】は創作を始めた時には確かにあると思う。その未分化の「創造力」を鍛え、活性化するために「批判力」は使われるべきだろう。

 

創作雑記ほかエッセイ〜メニュー〜
読み切りアイディア・ストーリー〜メニュー〜

ノルマを課して書くことについて

「とにかく書く」は修行感はあるものの…

スポーツ選手が毎日○km走ると決めて実践するように、毎日○枚書くと決めて小説修行している書き手もいるのではないか。実際にそうしたストイックな努力を続けているという人に出会ったこともある。
しかし僕はノルマを課して書くことについては懐疑的だ。といっても、これはあくまでも個人的経験からの判断で、僕の考えを一般化するつもりはない。その人の資質や取り組み方、設定目標、あるいは修行段階によっても、違うのかもしれない。

僕はもともと文章は下手くそで、書くのも遅い。創作活動を始めた頃は、執筆能力を高めるためには努力が必要だと感じ、「とにかく書く」ことを実践してみたことがある。1年ほどの間、修行のつもりで試してみたのだが……その間に書いたものを集計してみたところ、1日あたり19枚(四百字詰め原稿用紙で)を書いていた。僕にしてみれば、かなりの量だ。しかし、それで文章が巧くなったとか、おもしろいものが書けるようになったとかいう実感は無かった。「書く気になれば書けるものだな……」という変な達成感(?)みたいなものはあったものの、冷静に眺めてみれば、書いたものは粗雑で大しておもしろくもない……書くことを優先することで、(当時の未熟な技術で)書ける範囲で書いてしまう──《低水準の作品を量産できる技術を磨いてきた》感がなくもない。修行中はそれなりに努力をしているつもりでいたけれど、何のことは無い、ただゴミを量産することに時間を費やしてきただけだった……。学ぶことがあったとすれば、「がむしゃらに書くだけでは(書けるようになったところで)巧くならない」ということくらい。他には得るものは無かった。
僕は「とにかく書く」という方針をやめた。


つまずいたら 立ち止まって考える

書いていてなかなか筆が進まない「しんどい」状態におちいった時は、それは作品のどこかに無理があるからだ。その原因を棚上げして無理矢理書き進めても良いものができるわけがない。思うように書けない時は、立ち止まり、時間をかけてでも「いったい何が悪いのか?」──創作上の問題点を究明して打開策を模索するのが正しいやり方だと考えて、以後はそうしている。問題点を探し出し、解決の糸口をみつけて書く作業に戻る。そして、まだ「しんどい」ようであれば、自分の分析や解決策に間違いがあったと考え、さらに考える──。書いては考え、考えては書く──遅々として進まないようだが、作品の本質を理解する能力はそうやって培われるのではないかという気がする。つまずくたびに問題点を洗い直す作業は、その時点では停滞しているように感じても、上達するためには必要なプロセスではないかと思うのだ。ノルマを優先して無理矢理書き進めるのは「気づき」のチャンスを捨てて「問題をスルーして書く技術=悪いクセ」を身につけることにもなりかねない──そう考えるようになった。

人気作家が依頼の需要をこなすために量産技術を修得するのは必要なことなのかもしれないが……修行中の書き手がすべきことは、効率的に作品を量産する訓練よりも、時間を充分にかけて作品の質を高めることなのではないかという気がする。
創作能力が未成熟のまま量産する訓練をすれば、その時点で安易に書ける低水準の作品で安定してしまう懸念がある。そういう同人誌作家も思い当たらないではない。

散歩をしていると、多くのジョギンガーを目にする。美しい洗練されたフォームで走っている人は陸上選手なのだろうと一目でわかる。競技として走っているわけではない多くのジョギンガーは我流のフォームでそれぞれのペースで走っているものだ。中には妙ちくりんなフォームの人もいるが、走り続けている人は「悪いフォーム」であってもそれなりに安定していて、昨日今日走り始めた人とは一見して区別がつく。たくさん走り続けているからフォームが美しくなるというものではないのだ。
創作作品についても、同様のことがいえると思う。たくさん書いているから巧くなるということはない。悪いフォームを安定させるだけ──というケースもおそらく多いのではないかという気がするのである。

 

f:id:miraclehosshy:20190328210047j:plain

 ●創作雑記ほかエッセイ〜メニュー〜

読み切りアイディア・ストーリー〜メニュー〜

バーベットin夢

酒場で飲み代を賭けて行う、ひねりのきいた賭けゲームをバーベットと呼ぶそうな。今回のショートショート(風メモ)は、僕が見た夢の話で、登場する仮名の2人も実在の人物である。夢の中で物語(ショートコント?)が完成することもある──ということで。

 

f:id:miraclehosshy:20190327024250j:plain

f:id:miraclehosshy:20190327024311j:plain

 

ちょっと補足しておくと……ムギピョン(仮名)は一時女性を装って書き込みして仲間をだましていたことがあり、そっちの気があるんじゃないかとツッコミが入った人物である。これが、女装→Tバックという連想で、こんな夢になったのだろう。いちおう、ひねりのあるオチまでついているから、夢の中でアイディア・ストーリーがまとめられた一例といえるだろう。
昔、『竜の船』というファンタジーで《第32回毎日児童小説》小学生向の佳作1席に選ばれたことがあったが、このときの作品も、ほとんど夢の中でストーリーが出来上がっていた。

 

読み切りアイディア・ストーリー〜メニュー〜

【童話】と【絵本】の違い

小説の「縦書き」と「横書き」について、前の記事で記したが、「縦書き」か「横書き」かで、顕著な違いが現れるのが絵本で、縦書き(右開き:右から左へページが進む)か横書き(左開き:左から右へページが進む)によって、これは文章よりも絵が大きく影響を受けることになる。
「縦書き」と「横書き」で大きく違う【絵本】と、しばしば混同される【童話】について、10年以上前に別のところで記した僕の考えをあらためて──、
     *     *     *     *     *
僕は【童話】を書いているが、【絵本】は描いたことがない。なのに「絵本を描いている」と思われることがある。挿絵と文の両方を描いた本があるから、これが【絵本】にあたると判断されるためだろう。
挿絵の比重が大きい【童話】は一般の人には【絵本】と同じように見えてしまうのかもしれない。

しかし、書き手の側からすると──少なくとも僕は、【童話】と【絵本】を一緒くたに扱うことには違和感がある。【童話】と【絵本】は、発想において全く別モノ──という意識があるからだ。
簡単にいえば【童話】は小説の1ジャンルであり、文章によって構成される芸術形態。【絵本】は場面(見開き)ごとに構成される視覚的な芸術──紙芝居に近いといえるかもしれない。
【童話】を書く場合、量(枚数制限など)は意識しても、基本的に展開は小説とかわらない。【絵本】の場合はまずページ数(見開き数)──場面数から逆算して物語の展開が作られることになるのだろうと思う。漫画のコマ割り・ネーム作りに近い創作行程かもしれない。

本質的には「文と絵の(分量的な)比率」は関係ない。
絵の占める割合がどんなに多く、本文がどれほど少なくても【童話】は童話。挿絵がなくても小説として成立しうる(文章だけで独立して読める)作品はそう呼べる。また逆に極端な話、挿絵がまったく無くても、見開きの場面ごとに構成された物語は(創作上では)【絵本】といえるのではないか──と僕は考えている。

【童話】は場面数にしばられないが【絵本】の構成は場面数を基に考えられる。挿絵の部分については判型も関係してくるだろうし、右開きか左開きかにも大きく影響を受けることになる。
本文が縦書きの絵本なら、本文は右頁から左頁へと読み進められる関係から、描かれる絵の展開も右から左へ向かうことになる。登場人物たちが歩いていくシーンは左向きになるのが自然だ。逆に本文が横書きの場合は本文が左頁から右頁に読まれていく関係で、登場人物たちも右向きに進行していくことになる。

【絵本】が右開きか左開きかにも影響されるという実例にこんなエピソードがある。以前、某児童書出版社で外国の絵本を翻訳・出版することになった。英文で書かれた横書きの絵本を、そのまま横書きの日本語訳で出版すれば問題なかったのだが、一冊だけ新しい企画の本を出すより、すでに浸透しているシリーズ(縦書きの絵童話シリーズ)に入れて出した方が良いという営業的な配慮が働いたのだろう──オリジナルは横書きだった絵本を縦書きに組み替えてしまった。しかしそうなると絵だけを元のまま場面ごと収めてみても、しっくりこない。本文の進行方向がオリジナルの英文では「左→右(横書き)」だったのに翻訳版で「右→左(縦書き)」に変わってしまったために、挿絵の登場人物の進行の流れと逆向きになってしまったためだ。それならば、挿絵の向きも逆にしてしまったらどうだろう──ということで、なんと原画の左右を反転させることを検討したというのだ。「そうしたら、絵に描かれていたアルファベットまで反転しちゃったんで困った」なんて話を編集者から聞いたことがある。

しかし、創作する側から言えば、描かれた絵を反転させて起こる弊害は、たまたま描かれていたアルファベットが読めなくなるという次元の問題ではないだろう。画面(見開き)のレイアウト──絵の構成や文字の配置は読みやすさ見やすさを計算した上で決められたわけで、左右を反転させて線対称にバランスが保たれたから良いと言うものではない。
通常「絵は左、文は右」に配置した方が見た目は安定する──これは右脳と左脳の働きによるものなのだろうが、そんな知識はなくても、絵本・新聞・ポスターなどを見なれた人なら経験的にそれを知っているはずだ。左右をそのまま反転したのでは、印象は異なるものになり、作者の空間配置の計算は崩れてしまうことになる。

もっとも、このエピソードで問題になったのは【絵本】の「絵の部分」についてで、本文については「右開きか左開きか」で影響を受けることはなかっただろう。しかし、もし、ページ数(場面数)の変更があれば(総文字数に変更はなくても)、厳密にいえば作者は本文にも手を入れたくなるのではないかと思う。
また、余談だが、今後電子出版のようなものが普及していけば、右開き・左開きの制約を受けない絵本の可能性(同一作品の中で登場人物らが左右同等に進行できる)──みたいなものが追求され、「右開きでも左開きでもない」(紙芝居式?)展開の絵本、その特徴を活かす発想の原文が書かれる──なんてことも当然あるのではないかと僕は考えている。

このように【絵本】の創作には多分に視覚的な要素が伴う。【童話】を考えるのとは基本的に創作思考プロセスが異なるものだ──というのが僕の感覚だ。【童話】を考えているときと【絵本の文】を考えているときの脳の活性を調べたら、違いがでるのではないか……なんていう気もする。

ただ、もちろん、【童話】と【絵本】は相反するものではない。
文章のみでも優れた【童話】として成立する作品が、同時に【絵本】としても優れている例はままあるし、出来上がった作品が必ずしも【童話】か【絵本】かのどちらかに区分される──というものでもないだろう。
しかし、一般的には【童話】と【絵本】の違いというのは明確でなく、その本やシリーズを書店や図書館のどの棚に置くか──便宜的な判断で分けられていることが多いような気もする。

混同されがちな【童話】と【絵本】について、僕はそんなふうに考えている。

 

創作雑記ほかエッセイ〜メニュー〜
読み切りアイディア・ストーリー〜メニュー〜

小説の「縦書き」と「横書き」

僕はファッション感覚ゼロで、自分のオシャレには全く関心がないのだが……自分が作っていた個人誌の誌面やブログの画面の見映えは気になる性分だ。Yahoo!ブログでは昆虫の記事が多かったが、視覚的にわかりやすく画像を加工したりキャプションを加えたり、文章との兼ね合いなどを意識しながら記事を投稿していた。これも、(自分がどう見えるかは気にしないが)自分が作ったものが、どううつるかは気になってしまうからだ。

ブログに文章をあげる場合も、日本語で書かれた創作文芸系の作品は「縦書き」の画面の方がしっくりくる──という感覚が僕にはあるので、わざわざ縦書きの画像で投稿している。
今では多くの人がパソコンを使い、横書きで小説等も描いていると思うが、おそらく原稿用紙に縦書きで書くことをしていた人と、はじめから横書きでタイプしている人とでは、文章感覚のようなものに違いがあるのではないかという気がする。

パソコン画面を見ながら文章をタイプするときの、段落づくりや改行のタイミング、画面上の文章の塊から生まれるリズムは、縦書きの原稿用紙のそれとはずいぶん違う。原稿用紙でそうした文章の呼吸をつかんでいる人は、横書きでタイプしても体にしみこんだリズムが崩れることはないだろうが、初めから横書き画面で文章づくりをしている人は、横書き表記の呼吸が身に付いてしまうのではないか……という気がしないでもない。それがいいとか悪いとか言うつもりはない。文章の巧い下手とはまた少し別のものだろう。ブログで横書きの小説を読んでいると、「これは、横書きに慣れた人の文章だな……」と感じることがあるというだけの話。

僕は原稿用紙世代だったので、ワープロ専用機やパソコンを使うようになっても、創作作品は縦書きになることをイメージしてタイプしていた。この文章のようにブログで横書きで投稿するものと、縦書き用文章は明確に分けてタイプしている(横書き用は段落の1文字目を空けず、段落間に1行空きを設ける頻度を増やす・など)。
だから、縦書きを想定して描いた創作作品を横書きで披露することに違和感がある。
オシャレには関心がないが、ブログ画面の見映えには関心がある僕は、それでわざわざ縦書き画像を作って投稿しているしだい。

縦書き画像をつくるさいに、空きスペースがあると気になり、タイトル幅を調整したりカットやコラムで埋めて画面(誌面?)の体裁を整えたくなってしまうのは、同人誌や個人誌を作っていたからだろう。

そんな理由で縦書きにしたショートショートや読み切り童話などの一覧は⬇

読み切りアイディア・ストーリー〜メニュー〜

 

創作雑記ほかエッセイ〜メニュー〜

愛犬家博士の<夢の発明>(ショートショート)

f:id:miraclehosshy:20190324093721j:plain

f:id:miraclehosshy:20190324093735j:plain

f:id:miraclehosshy:20190324093751j:plain

今年終了するYahoo!ブログで10年ほど続けてきた元旦の年賀記事──年号や賀詞・十二支などの文字記号で、その年の動物(十二支)を描くということを続けてきた。その2018年の年賀記事で、いぬ(十二支)にちなんだ小話として載せていたショートショート。文字記号を使い、本来とは違った使い方で、別の意味をどうもたせ・見る者を誘導するか──という〈ひねり〉の作業は、ショートショートのアイディアをひねり出す思考過程に似ていなくもない。

f:id:miraclehosshy:20190324093828j:plain

 

読み切りアイディア・ストーリー〜メニュー〜