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「下手に書け」橋本忍氏の脚本観について

前回の【ノルマを課して書くことについて】で僕は「書くことを優先して質を下げる」ことを批判的に記した。ただ、これとは逆の意見もある。著名な脚本家・橋本忍氏が以前テレビ番組で語っていたのだが──曰く「シナリオは下手に楽に書け」「自分のシナリオが下手な事に気をつかうことは無い」──つまり、自分の書くものが下手であっても、そんなことは気にせず、書くことが大事というようなことを語っていた。そんな興味深い橋本氏の脚本観と、それについて思うところを以前別の場所で記したことがあったのだが、前回の記事とも関連したテーマでもあるので、あらためて記しておくことにした。

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橋本忍氏が語った脚本観について

以前【没後10年 黒澤明 特集】としてNHKで『脚本家 橋本忍が語る 黒澤明〜「七人の侍」誕生の軌跡〜』という番組が放送されたことがあり、それを見ての感想覚書。

橋本忍は言わずと知れた脚本家。黒澤明監督との共同脚本も8本あり、そのひとつ──映画『七人の侍』がどのような経緯で制作されたかについて、脚本家の立場で語った番組だった。

ちなみに『七人の侍』は僕がもっとも好きな映画のひとつであり、完成度も非常に高い作品だ。作品誕生の経緯や、黒澤方式(?)の共同脚本がどのようなものだったのかも興味深かったが、この日記ではその主題については触れない(長くなるので)。メインの話も大変面白かったのだが、それとは別に、橋本忍氏がちょろっと語った自身の脚本について考え方がとても印象深かったので、今回はその部分と、それについて思うところを記しておきたい。

問題の発言は番組の最後──聴講していた(映画を勉強している)若者たちとの質疑応答の中で出てきた。橋本忍氏が「努力目標を持つ事が大事」とアドバイスしたとき、「橋本さんの努力目標は?」と問われて答えたのが次の言葉だった。

「シナリオは下手に楽に書け
 自分のシナリオが下手な事に気をつかうことは無い」

そう心がける事が努力目標だというのである。

「シナリオを書こうとして書けない人、書き出して途中で止まって止める人。これは上手く書こうとするからだ」
──と橋本氏は話す。
人は小さい頃から教育を受け、様々な事を学び、「批判力」は身につけてきているが、「創造力」に関しては学んでいないのが普通だ──だから同じ人の持っている「批判力」(大)と「創造力」(小)には相当な格差がある。それゆえ自分が創造している作品を自分の批判力をもって測ると批判力の方が勝り、立ち行かなくなってしまう(書けなくなる)。
だから最初から上手く書こうとは思わず、下手に書くつもりでないと作品はできない──というのだ。
「極端に言うと、シナリオは批判力をゼロにしたとき初めて生まれる」とも語った。
一度「批判力」を外してシナリオを書き、できあがったところで初めて批判力を使って一つ一つ直して行けば良い。最初から完全なモノを書こうとしないことだ。
──そんな内容の話をし、会場の若者たちは大いにうなずいたりメモをとったりしていた。

この指摘は脚本にかぎらず、創作を志したことがある人なら響くところがあったろう。

映画を観たり小説を読んで、どこが良いとかどこがダメとか批評したり分析することはたやすい。人はそれで創作作品を判ったようなつもりになりがちだが、しかし実際に作品を書いてみると、これがなかなか思うように行かないものだ。創作活動をしたことがある人なら誰もが経験する事だろう。
なまじ批判力があるために描き始めてメゲることはよくある。それを橋本氏は「なるほど」と思える理屈で説明している。「目から鱗が落ちた」と感じた人も多かったのではないだろうか。
「うまいコトを言うなぁ」と僕も感心しながら聞いていたのだが、個人的には、ちよっぴり「書き上げるための欺瞞」という感じがしないでもなかった。
(若者たちに「とにかく辛くても書きあげることが大切だ」とエールを贈る意味合いもあったのかもしれないが)

創作というのは、思い描いていたイメージを具現化し定着させることだ。明確に思い描いていたつもりでも具体的化していく作業の途上で、それまで気づかなかった不備や解決せねば成らない問題が発覚するものである。書いてみてはじめて気づく(意識化される)ことは多い。
最初に思い描いていたイメージと、書いた原稿を読み返して浮かぶイメージとではギャップがあるのが普通だ(特に創作を始めて間もない頃は)。頭の中に思い描いていたイメージと原稿となったもののイメージの格差は何によるものなのか──その原因を探り当て、どう対処すれば当初のイメージに近づけることができるかを考えて修正をはかる。場合によっては当初のイメージ自体にも修正を加えながら、改善後の原稿を書いて再び読み直し、さらに修正を加える──こうしたフィードバックのプロセスをくり返す事で、イメージはより密度を増し、作品はあるべき形に近づいていくわけだ。

そういった意味で創作(脚本や小説など)は、「書かないことにはハナシにならない」ということはハッキリしている。
創作もスポーツも科学も……フィードバックのプロセスなしに真理に近づくことはできない。

さらに言うと……(創作作品を)書いたことがない人の批評・評論はしょせん机上の空論──泳いだ事が無い人が水泳競技を見て技術分析をしているようなものだ。書かずに理屈をこねたところで実践(実証)がともなわなければ、創作を理解した事にならない。
評論という分野は創作とはまた別次元のジャンルで、創作の一面を捉えているだけにすぎない。
例えてみれば、出された料理を食べて「うまい」「まずい」というのが評論であり、創作は「調理」にあたる。うまいかまずいか言い当てる能力は調理の技術とは別のものだ。

映画や小説をたくさん観たり読んだりしていることで独自の作品論を構築し創作作品を理解した気になっている「映画通」「小説通」は少なからずいるようだが、実戦経験がなければ、それは「水泳中継を見ただけで、トップイスマーになった気でいる」のと同じかもしれない。

さて、「書かないことにはハナシにならない」ということは明白だ。
書かずに批評ばかりする者より、失敗作であっても書いた人の方が先に進んでいる
──ということも言えるだろう。

ただ「書いてさえいれば、それで良いのか」──「描き続けていれさえすれば前進し続けていると言えるのか」というと、それはまたちょっと違うという気がする。

とにかく「たくさん読み」「たくさん書く」ことが大事だと言う人は多い。意味する所は判らないでも無いが、僕は「量」より「質」が大事なのだと思う。

国語が苦手で大嫌いだった僕は書くのが遅い。しかしながら、とりあえず練習のつもりで「とにかく書く」ことを心がけてみた時期がある。平均したところ1日あたり19枚(400字詰め原稿用紙)書いていた時期もあった。
けれど、ふり返ってみるとその時期に得たものはほとんど無い。「無理矢理書けば書けるものだな……」というのがわかった程度で、無駄な事を続けていた印象が強い。
書いていると、すんなり筆が進むときと、ぱたっと止まってしまうこと、スピードが極端に落ち書き進めるのがしんどい事など、あるものである。
そんなとき「批判力」を捨てて書き進めて良いものか……と僕は思う。
書くのに抵抗が生じたときは、きっと何か理由があってのことである。そんなときはむしろ立ち止まってその理由──「作品を書きすすめる上で障害となっている問題点」を探りあて、解決法を探ることに時間を費やすべきだ──というのが僕の考え方だ。

着手した作品が思いのほか進まないのは、科学で言えば「理論(仮説)ではうまくいくはずなのに実験をしてみたら思うような結果が得られない」という状態に似ている気がする。むりやりでも進めたいところを立ち止まって検証することが遠回りのようでも真の解答(解決)へ近づく道ではないかと思うのだ。

「何か違うな……」という迷いを無視して(「批判力」を捨てて)強引に進めた作品は書き上げても結局モノにならない──と僕は考えている。
修正によって改善し得る範囲にも限界はある。とにかく書き上げれさえすれば、あとは修正でいくらでも完成度を上げられる──というものでもない。疑問を感じながら強引に書き上げた作品には本質的な不備が潜んでいる可能性が高い。

つまずいた時、書き進むのが困難になったときにこそ、「批判力を駆使して」それまで自覚できずにいた問題を意識化し解決につとめることが大事ではないのか──僕はそう考えている。

橋本忍が語った【「批判力」と「創造力」の格差】は創作を始めた時には確かにあると思う。その未分化の「創造力」を鍛え、活性化するために「批判力」は使われるべきだろう。

 

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