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個人誌的ブログを試行中…ショートショートや読み切り童話など

いきいきリサイクル(読み切り童話)

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個人紙《チャンネルF☆通信》第12号(1995年10月16日号)に掲載した5枚余りのショートショート童話。TVニュース番組の中で、養鶏場でお払い箱となった雌鳥をひきとり、廃棄される飼料を利用して育てている人の活動が紹介されていたことがあって、「職員もリサイクルでは?」と思ったのが着想のきっかけ。ニワトリや食料品のリサイクルという方向に読者を誘導し、じつはリサイクルの対象はヒトだったという意外性を演出できるのではないかと考えた。しかしこのオチは、ちょっと当たり前すぎて(?)インパクトとしては弱かったかもしれない。

 

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とどけられたポケッチ(読み切り童話)

日常の中の小さな事件。ちょっとしたウソが意外な展開に……小学3年生の葛藤を描いた原稿用紙12枚ほどの作品。

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小学3年生の国語のテストで使われる素材文として依頼を受けて書き下ろした作品。条件が色々細かく指定されていたので、少々とまどったが、それを満たす話を考えた。テストの素材文とはいえ、読者が興味を持って読める(楽しめる)作品でありたい。
子ども同士の間で、ちょっとしたミエから、つい嘘を言ってしまうということはありがちなこと。そんな小さな嘘が予想もしなかった方向に展開していき、後戻りするのがキビシイ状況に追い込まれてしまう──そんな主人公の葛藤を描くことにした。主人公が苦しまぎれについた嘘が現実になってしまう!?(嘘で紛失したと言った流行玩具が戻ってくる)──という意外な展開を盛り込むことで読者の気持ちを引きつけようと工夫したつもり。
ちなみに《ポケッチ》は一時大流行した携帯ペット育成ゲーム《たまごっち》のイタチ版(イタチ科のフェレットを想定)をイメージしたものだった。

 

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執筆時間と作品の出来映え

時間をかければ良い作品が書ける…わけではない

ノルマを課して書くことについて】の中で僕は《修行中の書き手がすべきことは、効率的に作品を量産する訓練よりも、時間を充分にかけて作品の質を高めること》と記したが、ちょっと違ったニュアンスで受け取られかねないと気がついたので、誤解がないように少し補足しておくことにした。

筆が進まなくなっときに、無理矢理書き進める量産訓練をしていたのでは、作品の質を下げることになりかねない。そんな時は立ち止まって執筆の障害になっている原因を見極め解決してから書き進めるべきだ──という意図で書いた部分だ。つまづくたびに立ち止まって考えることは、作品の本質を見極める分析力を養う上で必要だと僕は考えている。《時間を充分にかけて作品の質を高める》というのは、取り組んでいる作品の執筆の障害になっている問題の把握や解決策の模索には時間がかかる──そうした時間を充分ついやすべきだ、という意味で記したものだ。
《時間をかけた作品は良い作品になる》という意味でも《時間をかけずに書いた作品は質が低い》という意味でもない。

個別の作品の質と執筆に費やした時間の関係で言えば、《時間がかからずに書けた作品の方が質が高い》傾向にある。これはつまり、《執筆は抵抗なくスムーズに筆が進んだ》ということであり、作品に不備・障害がなかったことを意味する。逆に何度も筆が止まり完成までに時間を要した作品は《修正を要する問題を多くはらんでいた》あるいは《作品の根幹にかかわる部分で不備があるために滞り、時間がかかってしまった》可能性が高い。
作品の本質を見極め自覚するための分析力を養うには充分に時間をかけるべきだが、これは時間をかけさえすれば良い作品になるということではない。完成度の高い作品は逆にスムーズに(時間をかけずに)描けるものである。


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作品合評会について

僕も昔、同人誌活動や児童文芸の研究会等で合評会を経験している。合評会は創作仲間が互いの作品を批評しあう場だ。創作をする上で必要な《作品を適切に評価する能力(分析力)》は合評会で培ったように思う。我流で創作を始め、右も左もわからなかった僕が、自分なりの《ものさし》を形成する上で合評会は大いに刺激になった。そんな合評会をふり返って、思うところを少し記してみたい。

自分が苦労して書き上げた作品というのは、うまく描けているのかどうか、判断するのが難しい。読み返して判断しようにも、冒頭を読む時点で、その後の展開や結末が全てわかっているので、ニュートラルな気持ちで読むことができない。書いているときの苦労や不安が脳裏に蘇ってきたりして、とても読者として客観的に見ることができない。
そこで、他の人が読んだらどう感じるのか──他者の意見が知りたくなる。また、同じように創作をしている人がどんな作品を書いているのかも気になるし、皆がどんなことを考えながら作品づくりをしているのかにも興味がある。ということで、同人誌や研究会などに参加した。そこでの合評会は興味深く、色々と学ぶことが多かった。

ただ、同じように創作を志している人たちの意見というのは、イコール・(一般の)読者とは、またちょっと違う。僕が書いていたのは童話だったので、特に読者対象の子どもとは違った──《読む側》ではなく《与える側》の大人の視点で考えている人が多かった。合評をするのは、純粋な読者ではなく、書き手だということを考慮にいれて意見を仰ぐ必要はあると思う。書き手である以上、それぞれに目指す理想の文学観(作品論)のようなものがあって、その考え方に当てはめて作品を判断しようとする傾向があるからだ。書き手の批評は、どうしても《その人の文学論に偏った見方になりがち》だったりする。

自分の作品に対して自分ではニュートラルな読み方ができず、他者の意見も、その人の文学論に偏ったものだとすると……自分の作品に対する評価がどれだけ妥当なのかを正しく分析するのは、やはり難しい。

そこで僕は、他の人が書いた作品に対するメンバーの評価に注目した。自分の作品はなかなか客観的に見ることができないが、他者の作品なら客観的に見ることができる。他者の作品に対し、僕が抱いた感想と、他のメンバーが指摘する評価を比較することで、客観的に理にかなった批評をしているのはどちらか──自分の作品分析力がどのていど妥当なのかを判断することができるようになった気がする。
自分が書いた作品が他の人にどう評価されるかも、もちろん関心があったが、合評会では、他者の作品の評価を試金石に自分の評価能力の程度を確認し、作品分析能力を磨いていたように思う。

作品の合評となると、自分の作品に対する評価ばかりを気にして、他のメンバーの批評にはあまり関心がない人もいたが、僕の場合は、むしろ「客観的に読むことが出来る他者の作品」に対する合評が《作品を測るものさし》づくりに役立ったというう思いがある。自分なりの評価基準のようなものができてくると、それを自分の作品にあてはめて考えることもできるようになる。

僕の場合は、そんな形で合評会が有益だった。ただ、参加した同人誌の中には合評会にあまり熱心でないグループもあり、《合評会の質》はそのグループによって格差があったように思う。褒め合い励まし合うことは互いの書くモチベーションの後押しになるのかもしれないが、率直な意見交換ができる場であることが、より良い作品を書くためには必要な気がする。

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創作初心者に対するアドバイスについて

右も左もわからずに書き始めた頃をふり返って…

創作を始めて日が浅いうちは、「おもしろいものを書こう!」という意気込みはあっても、技術的なことはあまりよくわからず、無自覚で書いている部分が多い。また、そうして書いた書いた作品がはたしてどのていどのものなのか、自分で判断するのも難しい。
そこで、他者の意見──同人誌合評会などでの先輩や他のメンバーの意見が、初心者にとって大いに参考になるわけだが……僕の合評会時代をふり返って思うところを少し記してみたい。

初心者は、書いている時は短所はもちろん長所についても無自覚でいることが多い。そんな初心者の作品を読んだときに、まず気になるのが短所の方だ。作品の欠点は長所よりも明確で、具体的に指摘しやすい。合評会などでは、おざなりに褒めたあと、欠点について具体的に指摘されることが多い(多かった)ように思う。作者としては無自覚で書いた作品の欠点が指摘され具体化することで初めて問題点が意識化でき、「なるほど、もっともだ」と納得する。そして、意識化できた欠点を修正すべく書き直しをする──が、問題を解決したはずなのに、作品は書き直す前よりもつまらなくなっている……という現象が起きたりする。

初心者は具体的になった欠点を直すことばかりに意識が向いてしまい、無自覚で書いていたおもしろさ(長所)が薄れてしまうためだ。短所を自覚できたのに長所を自覚していないと、こういうことが起こる。
欠陥が修復できても、作品をつまらなくする改稿は本末転倒というものだ。欠点の修正も大事だが、意識すべきは《作品をより良くすること》。《手直しは、長所を活かすための変更》──くらいの気持ちで取り組むのがいいのではないかと思う。

合評会では、作品の短所(欠点)が明確化しやすいが、アドバイスをする側もされる側も、長所の指摘・自覚も大事だということを心しておくべきだと思う。
短所の指摘・自覚は簡単だが、長所の指摘・自覚は難しい。
手直しするさいに、短所の解決策が同時に長所を引き出す方向に働くような指摘が理想的だろう。
合評会では、色々な意見が出てくるだろうが、「その指摘が、その作品の良さを引き出すことに、どうつながるのか」という視点をもつことも大事なような気がする。

 

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「下手に書け」橋本忍氏の脚本観について

前回の【ノルマを課して書くことについて】で僕は「書くことを優先して質を下げる」ことを批判的に記した。ただ、これとは逆の意見もある。著名な脚本家・橋本忍氏が以前テレビ番組で語っていたのだが──曰く「シナリオは下手に楽に書け」「自分のシナリオが下手な事に気をつかうことは無い」──つまり、自分の書くものが下手であっても、そんなことは気にせず、書くことが大事というようなことを語っていた。そんな興味深い橋本氏の脚本観と、それについて思うところを以前別の場所で記したことがあったのだが、前回の記事とも関連したテーマでもあるので、あらためて記しておくことにした。

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橋本忍氏が語った脚本観について

以前【没後10年 黒澤明 特集】としてNHKで『脚本家 橋本忍が語る 黒澤明〜「七人の侍」誕生の軌跡〜』という番組が放送されたことがあり、それを見ての感想覚書。

橋本忍は言わずと知れた脚本家。黒澤明監督との共同脚本も8本あり、そのひとつ──映画『七人の侍』がどのような経緯で制作されたかについて、脚本家の立場で語った番組だった。

ちなみに『七人の侍』は僕がもっとも好きな映画のひとつであり、完成度も非常に高い作品だ。作品誕生の経緯や、黒澤方式(?)の共同脚本がどのようなものだったのかも興味深かったが、この日記ではその主題については触れない(長くなるので)。メインの話も大変面白かったのだが、それとは別に、橋本忍氏がちょろっと語った自身の脚本について考え方がとても印象深かったので、今回はその部分と、それについて思うところを記しておきたい。

問題の発言は番組の最後──聴講していた(映画を勉強している)若者たちとの質疑応答の中で出てきた。橋本忍氏が「努力目標を持つ事が大事」とアドバイスしたとき、「橋本さんの努力目標は?」と問われて答えたのが次の言葉だった。

「シナリオは下手に楽に書け
 自分のシナリオが下手な事に気をつかうことは無い」

そう心がける事が努力目標だというのである。

「シナリオを書こうとして書けない人、書き出して途中で止まって止める人。これは上手く書こうとするからだ」
──と橋本氏は話す。
人は小さい頃から教育を受け、様々な事を学び、「批判力」は身につけてきているが、「創造力」に関しては学んでいないのが普通だ──だから同じ人の持っている「批判力」(大)と「創造力」(小)には相当な格差がある。それゆえ自分が創造している作品を自分の批判力をもって測ると批判力の方が勝り、立ち行かなくなってしまう(書けなくなる)。
だから最初から上手く書こうとは思わず、下手に書くつもりでないと作品はできない──というのだ。
「極端に言うと、シナリオは批判力をゼロにしたとき初めて生まれる」とも語った。
一度「批判力」を外してシナリオを書き、できあがったところで初めて批判力を使って一つ一つ直して行けば良い。最初から完全なモノを書こうとしないことだ。
──そんな内容の話をし、会場の若者たちは大いにうなずいたりメモをとったりしていた。

この指摘は脚本にかぎらず、創作を志したことがある人なら響くところがあったろう。

映画を観たり小説を読んで、どこが良いとかどこがダメとか批評したり分析することはたやすい。人はそれで創作作品を判ったようなつもりになりがちだが、しかし実際に作品を書いてみると、これがなかなか思うように行かないものだ。創作活動をしたことがある人なら誰もが経験する事だろう。
なまじ批判力があるために描き始めてメゲることはよくある。それを橋本氏は「なるほど」と思える理屈で説明している。「目から鱗が落ちた」と感じた人も多かったのではないだろうか。
「うまいコトを言うなぁ」と僕も感心しながら聞いていたのだが、個人的には、ちよっぴり「書き上げるための欺瞞」という感じがしないでもなかった。
(若者たちに「とにかく辛くても書きあげることが大切だ」とエールを贈る意味合いもあったのかもしれないが)

創作というのは、思い描いていたイメージを具現化し定着させることだ。明確に思い描いていたつもりでも具体的化していく作業の途上で、それまで気づかなかった不備や解決せねば成らない問題が発覚するものである。書いてみてはじめて気づく(意識化される)ことは多い。
最初に思い描いていたイメージと、書いた原稿を読み返して浮かぶイメージとではギャップがあるのが普通だ(特に創作を始めて間もない頃は)。頭の中に思い描いていたイメージと原稿となったもののイメージの格差は何によるものなのか──その原因を探り当て、どう対処すれば当初のイメージに近づけることができるかを考えて修正をはかる。場合によっては当初のイメージ自体にも修正を加えながら、改善後の原稿を書いて再び読み直し、さらに修正を加える──こうしたフィードバックのプロセスをくり返す事で、イメージはより密度を増し、作品はあるべき形に近づいていくわけだ。

そういった意味で創作(脚本や小説など)は、「書かないことにはハナシにならない」ということはハッキリしている。
創作もスポーツも科学も……フィードバックのプロセスなしに真理に近づくことはできない。

さらに言うと……(創作作品を)書いたことがない人の批評・評論はしょせん机上の空論──泳いだ事が無い人が水泳競技を見て技術分析をしているようなものだ。書かずに理屈をこねたところで実践(実証)がともなわなければ、創作を理解した事にならない。
評論という分野は創作とはまた別次元のジャンルで、創作の一面を捉えているだけにすぎない。
例えてみれば、出された料理を食べて「うまい」「まずい」というのが評論であり、創作は「調理」にあたる。うまいかまずいか言い当てる能力は調理の技術とは別のものだ。

映画や小説をたくさん観たり読んだりしていることで独自の作品論を構築し創作作品を理解した気になっている「映画通」「小説通」は少なからずいるようだが、実戦経験がなければ、それは「水泳中継を見ただけで、トップイスマーになった気でいる」のと同じかもしれない。

さて、「書かないことにはハナシにならない」ということは明白だ。
書かずに批評ばかりする者より、失敗作であっても書いた人の方が先に進んでいる
──ということも言えるだろう。

ただ「書いてさえいれば、それで良いのか」──「描き続けていれさえすれば前進し続けていると言えるのか」というと、それはまたちょっと違うという気がする。

とにかく「たくさん読み」「たくさん書く」ことが大事だと言う人は多い。意味する所は判らないでも無いが、僕は「量」より「質」が大事なのだと思う。

国語が苦手で大嫌いだった僕は書くのが遅い。しかしながら、とりあえず練習のつもりで「とにかく書く」ことを心がけてみた時期がある。平均したところ1日あたり19枚(400字詰め原稿用紙)書いていた時期もあった。
けれど、ふり返ってみるとその時期に得たものはほとんど無い。「無理矢理書けば書けるものだな……」というのがわかった程度で、無駄な事を続けていた印象が強い。
書いていると、すんなり筆が進むときと、ぱたっと止まってしまうこと、スピードが極端に落ち書き進めるのがしんどい事など、あるものである。
そんなとき「批判力」を捨てて書き進めて良いものか……と僕は思う。
書くのに抵抗が生じたときは、きっと何か理由があってのことである。そんなときはむしろ立ち止まってその理由──「作品を書きすすめる上で障害となっている問題点」を探りあて、解決法を探ることに時間を費やすべきだ──というのが僕の考え方だ。

着手した作品が思いのほか進まないのは、科学で言えば「理論(仮説)ではうまくいくはずなのに実験をしてみたら思うような結果が得られない」という状態に似ている気がする。むりやりでも進めたいところを立ち止まって検証することが遠回りのようでも真の解答(解決)へ近づく道ではないかと思うのだ。

「何か違うな……」という迷いを無視して(「批判力」を捨てて)強引に進めた作品は書き上げても結局モノにならない──と僕は考えている。
修正によって改善し得る範囲にも限界はある。とにかく書き上げれさえすれば、あとは修正でいくらでも完成度を上げられる──というものでもない。疑問を感じながら強引に書き上げた作品には本質的な不備が潜んでいる可能性が高い。

つまずいた時、書き進むのが困難になったときにこそ、「批判力を駆使して」それまで自覚できずにいた問題を意識化し解決につとめることが大事ではないのか──僕はそう考えている。

橋本忍が語った【「批判力」と「創造力」の格差】は創作を始めた時には確かにあると思う。その未分化の「創造力」を鍛え、活性化するために「批判力」は使われるべきだろう。

 

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ノルマを課して書くことについて

「とにかく書く」は修行感はあるものの…

スポーツ選手が毎日○km走ると決めて実践するように、毎日○枚書くと決めて小説修行している書き手もいるのではないか。実際にそうしたストイックな努力を続けているという人に出会ったこともある。
しかし僕はノルマを課して書くことについては懐疑的だ。といっても、これはあくまでも個人的経験からの判断で、僕の考えを一般化するつもりはない。その人の資質や取り組み方、設定目標、あるいは修行段階によっても、違うのかもしれない。

僕はもともと文章は下手くそで、書くのも遅い。創作活動を始めた頃は、執筆能力を高めるためには努力が必要だと感じ、「とにかく書く」ことを実践してみたことがある。1年ほどの間、修行のつもりで試してみたのだが……その間に書いたものを集計してみたところ、1日あたり19枚(四百字詰め原稿用紙で)を書いていた。僕にしてみれば、かなりの量だ。しかし、それで文章が巧くなったとか、おもしろいものが書けるようになったとかいう実感は無かった。「書く気になれば書けるものだな……」という変な達成感(?)みたいなものはあったものの、冷静に眺めてみれば、書いたものは粗雑で大しておもしろくもない……書くことを優先することで、(当時の未熟な技術で)書ける範囲で書いてしまう──《低水準の作品を量産できる技術を磨いてきた》感がなくもない。修行中はそれなりに努力をしているつもりでいたけれど、何のことは無い、ただゴミを量産することに時間を費やしてきただけだった……。学ぶことがあったとすれば、「がむしゃらに書くだけでは(書けるようになったところで)巧くならない」ということくらい。他には得るものは無かった。
僕は「とにかく書く」という方針をやめた。


つまずいたら 立ち止まって考える

書いていてなかなか筆が進まない「しんどい」状態におちいった時は、それは作品のどこかに無理があるからだ。その原因を棚上げして無理矢理書き進めても良いものができるわけがない。思うように書けない時は、立ち止まり、時間をかけてでも「いったい何が悪いのか?」──創作上の問題点を究明して打開策を模索するのが正しいやり方だと考えて、以後はそうしている。問題点を探し出し、解決の糸口をみつけて書く作業に戻る。そして、まだ「しんどい」ようであれば、自分の分析や解決策に間違いがあったと考え、さらに考える──。書いては考え、考えては書く──遅々として進まないようだが、作品の本質を理解する能力はそうやって培われるのではないかという気がする。つまずくたびに問題点を洗い直す作業は、その時点では停滞しているように感じても、上達するためには必要なプロセスではないかと思うのだ。ノルマを優先して無理矢理書き進めるのは「気づき」のチャンスを捨てて「問題をスルーして書く技術=悪いクセ」を身につけることにもなりかねない──そう考えるようになった。

人気作家が依頼の需要をこなすために量産技術を修得するのは必要なことなのかもしれないが……修行中の書き手がすべきことは、効率的に作品を量産する訓練よりも、時間を充分にかけて作品の質を高めることなのではないかという気がする。
創作能力が未成熟のまま量産する訓練をすれば、その時点で安易に書ける低水準の作品で安定してしまう懸念がある。そういう同人誌作家も思い当たらないではない。

散歩をしていると、多くのジョギンガーを目にする。美しい洗練されたフォームで走っている人は陸上選手なのだろうと一目でわかる。競技として走っているわけではない多くのジョギンガーは我流のフォームでそれぞれのペースで走っているものだ。中には妙ちくりんなフォームの人もいるが、走り続けている人は「悪いフォーム」であってもそれなりに安定していて、昨日今日走り始めた人とは一見して区別がつく。たくさん走り続けているからフォームが美しくなるというものではないのだ。
創作作品についても、同様のことがいえると思う。たくさん書いているから巧くなるということはない。悪いフォームを安定させるだけ──というケースもおそらく多いのではないかという気がするのである。

 

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